まれに見るイチョウ大木の名木
長興寺の公孫樹
 岩手県二戸市にある九戸城跡は国の指定史跡になっており、「戦国時代」に終止符を打つ最後の戦の舞台であったことで知られています。すなわち天下統一をめざしていた豊臣秀吉は、南の九州・四国から近畿・東海地方まで次々に攻め滅ぼし、この後これから攻める東北地方のことを思い、南部宗家の争いに乗じて、南部信直の応援願いを簡単に引き受けたのでした。1590年に小田原城を陥落させた秀吉は、その翌年小田原城攻めに匹敵する程の軍勢を九戸城に差し向けています。5千人の地方軍がたてこもる九戸城に、総勢6万人とも6万5千人とも言われるいわば全国軍が襲い掛かったのでした。
 九戸村にある長興寺は、この戦で滅ぼされた九戸氏代々の菩提寺で、山門の脇には寺のシンボルとも言うべきイチョウの大木があります。九戸村が指定する天然記念物になっており、近くにある九戸神社と共に、地域の人たちの九戸氏や九戸城懐古のシンボルにもなっています。
      長興寺の公孫樹   (九戸村指定の天然記念物
 所在地 九戸村長興寺
       学校の校庭を思わせる広い境内の真ん中に、その雄姿を見せています。黄葉が始まったその姿は
      やさしく周りを見守っているかのようです。樹齢は何年ぐらいでしょう。九戸政実が出陣の際に手植
      えしたという言い伝えが案内されていますが、九戸合戦は今から420年余前のことですから、その通
      りであれば、樹齢はそれ以上ということになります。。
放射状にしっかりと大地に根を張っています。
                影ながら歴史に名を刻む長興寺
      天正10年(1591年)の九戸合戦は多勢に無勢、九戸勢は善戦しましたがその勝敗の
       行方は歴然としていました。城主九戸政実は城に残る人たちの生命の安全を条件に和
       議に応じ、降伏しますが、その約束は守られず、城に残る者も全て惨殺されたといいます。
       その事実を示すように、九戸城跡の史跡調査などでは首のない人骨も見つかるそうです。
        時の天下人豊臣秀吉としては、元々和議など念頭になく、自分に楯突く者はどうなるか
       を天下に知らしめるつもりだったのでしょう。それにしてもひどいことをするものです。
        その豊臣軍はその戦において苦戦に手を焼き、、九戸氏の菩提寺であるここ長興寺の
       住職薩伝和尚を呼び出し、和睦の仲介役をお願いしています。ただしそれは偽りの和議
       で謀略でした。薩伝和尚は偽りの和睦とは露知らず、「軍がおわり、九戸氏も領民も総て
       がよくなることであるならば」と仲介役を引き受け、それを受け、城主は和睦に応じることに
       したとされています。史実は確かめようがありませんが、状況から推察するに、たとえこの
       仲介がなかったにせよ、城主である九戸政実は城に残る者の安全を信じて、自ら城を出
       たものと思われます。
        こうした言い伝えがある長興寺ですが、寺の記録には薩伝和尚のことは一切残っていな
       いそうです。残すことは耐えられないことだったのでしょう。

  
                  新緑の表情
              九戸氏代々が戦勝を祈願したと伝えられる
                     九戸神社
           長興寺の南西約1キロのところに、この地を知行した九戸氏を奉っている九戸神社
          があります。九戸氏代々の祈願所であったとされています。そちらの方も回ってみま
          した。
           この神社の妙見菩薩、昆沙門天、泥絵、棟札、奉納剣は九戸村の指定する有形文
          化財になっています。
紅葉したカエデが、こちらの訪問を歓迎してくれるかのようです。
軍の続いた戦国時代には、出陣の度にここで戦勝祈願をしたことでしょう。
         神社境内の一角には、九戸村の生んだ中世の英雄として九戸政実を奉った
          政実神社(政實神社)が建立されています。地元の有志によって建立されたの
          は平成7年(1995年)。今なお地元の人々が深く親しみ崇拝している、その気持
          ちの結晶ともいえるでしょう。
               この1冊でイチョウのことなら何でも……       
   イチョウのことを詳しく知る格好の本が発刊され
   ました。
      ピーター・クレイン著 矢野真千子訳

     「イチョウ 奇跡の2億年史」
      生き残った最古の樹木の物語

      河出書房新社 定価3500円(税別)

(本書まえがきより)
 かつて北半球の全域で生育していたが、気候変動などであちこちで途絶え、かろうじて中国南部の山間で生き延びた。数千年前からヒトに大事にされ、1000年前ごろに自生地から寺院の庭などへの移植が始まる。800年前ごろには朝鮮や日本にも広まった。そして17世紀末に日本で西洋人に見出されるや、たった数十年でヨーロッパを制し、全世界に進出していった。
(本書1章より)
 私たちの祖先が原生類人猿の祖先から分岐した700万年〜500万年前ごろにはおそらくイチョウはすでに減退していた。ヒトの出現期には、ほとんど絶滅寸前になっていた。地球支配権をヒトが握ることは、イチョウの息の根を止めることになるはずだった。ところがイチョウはほかの樹木と異なり、ヒトと共に栄えた。さまざまな利用価値をヒトに提供できたのと、何よりもヒトから崇められる存在になったことが大きかった。こうしたおかげでイチョウは執行猶予を得た。18世紀には日本の長崎・出島に居留を許されていたオランダ人を通じて、ヨーロッパにも伝えられるようになった。
             イチョウは時が置き去りにした樹木として、遠い過去の風景を身近な現代の
              風景へとつなく「架け橋」の樹木。樹木への親近感は、おそらくヒトの進化の過
              程で古くから私たちの中に刻まれている感情なのだろう。
                長崎の出島がこの悠久の命をつないだ ! !